お掃除で覚り(さとり)を開く人
神力寺 亀山環舜
毎朝、山門の側にある柿の葉っぱを拾うのが最近の日常になっています。空にうろこ雲が広がり秋の到来を感じさせる今日この頃です。皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
朝掃除をしていると必ず思い出すお話があります。それはお釈迦さまのお弟子の一人 「シュリハンドク」という方のお話です。
お釈迦さまのお弟子というと、みんな頭が良くて立派な方ばかりと思われがちですが、そうでもない、とぼけた方がおられたようです。その代表格なのがシュリハンドクさんです。どの位とぼけた方だったか申しますと「自分の名前すらろくに覚えることができなかった」とお経文にあります。
彼は、彼とは正反対の一を聞いて十を覚るお兄さんマカハンドクさんのすすめでお釈迦さまのお弟子になりました。しかし、自分の名前すら覚えられない彼は、お坊さんの生活についていけず、ついにあきらめてお寺から出て行こうとしました。その時、お釈迦さまの声がして、「シュリハンドクよここにいなさい。そして東の方を向き、塵よ!なくなれ、垢よ!なくなれと唱えながら、この白い布でお前の手をなで続けなさい」とお命じになられました。
実は彼、この「塵よ!なくなれ、垢よ!なくなれ」の一句さえも容易に暗記することができませんでした。それでも何とか手を洗い清めてから白い布で手を撫で続けながら唱え続けました。どれくらい時間がたったか、ふと見るとあの真っ白い布が彼の手垢で汚れているのに気がつきました。彼はドキッとして何かに思い当たりました。白い布も、洗った手も、いつまでも美しくはない「移りゆく道理」(諸法実相)にはじめて気がつきました。
布とわが手をじっと見つめているシュリハンドクにお釈迦さまは
「白い布はお前の手垢だけで汚れたのではない、お前の心の塵が汚れているせいなのだよ。あとはどうする?」
と聞かれました。彼の答えはたったの一つ、
「自分の汚れ、他人の汚れを取り除く事に精進します。」彼は実行しました。庭を掃き、人々の履き物をきれいにすることに精進したのです。彼はこの行為を続けることによって「塵よ!なくなれ、垢よ!なくなれ」の意味がわかってきたのでした。
ある時、彼は尼さんたちから法話を頼まれました。と言うのも尼さんたちは最近評判のシュリハンドクに焼き餅をやき、彼が一つ覚えのあの句を言う前に全員で唱え困らせてやろうとしたのでした。しかし、彼は
「私は本当に愚か者です。私がお釈迦様から教えを頂き覚えたものはこの一つの偈文だけです。願うことなら静かにお聞き下さい。」
素直な声にうたれて、大声で偈文を唱えようとしていた尼さんたちは口ごもり、彼の短い短い法話は終わったのでした。
それからもシュリハンドクはお釈迦さまのたった一言の教えに生き、ひたすらに身と心の掃除にいそしんで悟りを得ることができました。
シュリハンドクさんのお話は私の大好きなお話の一つです。一つの事をコツコツ努力をして成果を得る。昔ばなしの「うさぎとかめ」のかめのようです。亀が一歩一歩進んで兎を追い抜く。痛快です。
私たちも同じようにコツコツお掃除をして身の回りと心きれいにして境地を得ませんか。半信半疑でも構いません。毎日行うことに意義があるのです。南無妙法蓮華経のお題目も同じこと、信じて唱えて見ませんか。毎日コツコツ唱えることに意義があります。
コロナ禍のこんな時代だからこそ、
毎日の習慣こそが幸せへの近道です。
南無妙法蓮華経
(神力寺便り71号より抜粋)